装いは、判断の履歴

2026年、ブランドに頼らないという選択

—— 20~30代の経営者の方のための「装い=インフラ」論

先日、外資系トップファームでコンサルタントとして働く同級生と、じっくり話す機会がありました。対話の中で特に心に残ったのは、『個の時代』におけるマーケティング、そして社会構造の変化についてでした。

派手な成功事例や横文字の戦略論ではなく、
「これからの社会で、個はどう振る舞うべきか」という、かなり実務に近い話でした。

その中で、改めて腑に落ちた感覚があります。

いまはもう、
会社名や肩書き、ブランドに守られる時代ではないということ。
そして、一人ひとりが“自分自身の看板”として見られる社会に、すでに突入しているという事実です。

効率と標準化を良しとしてきた工業化社会の価値観は、
静かに、しかし確実に役目を終えつつある。
これからは、自分の基準を持ち、それを日常の振る舞いで体現している人間だけが、
少しずつ信頼を積み上げていく社会になる——
そんな結論でした。

なぜ、有名ブランドほど「記号」になったのか

私的な関心もあり、少し調べてみました。

ここ数年、ラグジュアリーブランドのロゴが一斉に変わっています。
ZEGNA、BERLUTI、LOEWE。
装飾的な書体は姿を消し、どれも似通った太字の大文字へ。

理由は明快です。
スマートフォンの小さな画面で、一瞬で認識される必要があるから。

つまり、ブランドですら
「語る」ことをやめ、「記号」になる選択をしたということです。

自動車業界も同じ流れにあります。
SUV化が進み、遠目ではシルエットの違いが分かりにくくなった。
その結果、リアにブランド名を大きく記すデザインが増えました。

名乗らなければ伝わらない時代。
これは合理的である一方、
考えなくても選べてしまう構造を、大量に生み出したとも言えます。

「記号」に頼りすぎると、判断軸が見えなくなる

この構造は、経営者の装いにも当てはまるのではないかと思います。

既成ブランドを着ること自体が悪いわけではありません。
ただ、それが唯一の判断軸になってしまうと、
装いは「自分の意思」ではなく「借り物の記号」に見えてしまう。

話に説得力があっても、
見た目の印象が気になってしまうと、
そちらに意識が向いてしまうことがあります。

メディアで20代〜30代の経営者の方を拝見していると、
洋服そのものの質は高く、価格も決して安くない。
それでも、私自身が無意識のうちに
「ああ、あのロゴの……」
「いまの流行だな」
と受け取ってしまう場面があります。
あくまで個人的な感覚ではありますが。

ロゴは本来、補助輪のような存在です。
基準が固まる前に使うもの。

そこに寄りかかりすぎると、
「この人は、何を基準に判断する人なのか」が見えなくなってしまう。
言葉より先に、違和感だけが伝わってしまいます。

アウトドアウェア、テックウェアという別の罠

ここ数年、アウトドアウェアやテックウェアを日常着として選ぶ方も増えました。
機能性、合理性、価格帯。
どれも間違いではありません。

ただ、ときどき違和感が残ります。
なぜその選択に至ったのかという判断軸が、装いから読み取りにくいのです。

素材は昔と大きく変わっていない。
縫製や構造も、進化はしていても劇的ではない。
それでも価格だけは、いつの間にかラグジュアリーの領域に達している。

結果として起きるのは、
「悪いものではないけれど、またそのブランドか」
「高いことは分かるが…」
という、ごく控えめな失点です。

アウトドアウェアもテックウェアも、本来は目的のある装いでした。
山に入る、雨を防ぐ、身体を守る。
ところが街で着られるようになった瞬間、
目的は薄れ、記号だけが前に出てしまうことがある。

装いそのものが悪いのではありません。
ただ相手の目には、
「自分で選んだ人」ではなく、
「選ばされた人」に映ってしまう場面がある。

それは失敗ではなく、
判断を外注したときに起きる、構造的なズレなのだと思います。

装いは、センスではなく「判断の履歴」

経営者にとって装いとは、
センスの主張ではなく、判断の一貫性を伝える手段ではないでしょうか。

だからこそ、機能や価格より先に、
その服が自分の思考と地続きかどうかが問われる。

「クワイエット・ラグジュアリー(Quiet Luxury)」という言葉を耳にするようになる以前から、
本来の上質さとは、
控えめであることではなく、
なぜそれを選んだのかが説明できることだったはずです。

ロゴを主張せず、分かる人にだけ分かる上質さ。
語らず、佇まいで伝わる価値観。

正直に言えば、
この言葉が生まれるずっと前から、
私は同じ考え方で服を作り続けてきました。

流行を先読みしたというより、
現場で経営者の方の動きを見続けてきた結果、
自然とそうなった、という感覚に近い。

派手さは要らない。
でも、雑音も混じってほしくない。

判断し、動き、責任を引き受ける人間にとって、
装いは主張ではなく、静かな補助線であるべきだと考えています。

装いは、自己主張ではなく、判断の履歴。
他人の基準を借りた装いは、どうしても輪郭がぼやける。
逆に、自分の哲学から選ばれた一着は、
語らずとも、相手に安心感を残すのではないでしょうか。

これまで言語化してこなかった自分の考えを、
今回は記録として書き残してみました。

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