先日、お子様の入学式のためにスーツをお仕立ていただいたお客様から、こんなお話を伺いました。
「子供たちは、親の格好をめちゃくちゃ見ていますから。親がきちんとしたスーツを着ていると、不思議といじめられにくかったりするんですよ」
この言葉に、私は衝撃を受けました。 けれど、後からよく考えてみると、自分自身の幼い頃の記憶が蘇ってきたのです。
誰の家が大きいか。親がどんな仕事をしているか。どんな車に乗っているか。 当時は意識していなくても、そうした情報はいつの間にか共有され、クラスの空気の中に溶け込んでいました。 そしてそれは、知らぬ間に「力関係」や「立ち位置」として表れていたはずです。
「服装で人を判断するべきではない」それは、紛れもない正論です。「人は見かけによらぬもの」ということわざもあります。
けれど、「人は見た目で判断してしまう」というのもまた、動かしがたい現実です。
余談ですが、ある経営者の方から「わざと汚い格好で百貨店に行く」という話を聞いたことがあります。店員の対応が露骨に変わるのを確認するためだそうです。
私たちは、口では「見た目で判断してはいけない」と言いながら、行動では驚くほど正直に、見た目で相手を判断しています。
おかしな話ですが、この矛盾は学校という社会の中でも、驚くほど自然に成立しています。そしてこれは、学校の中だけの話でもありません。
大人になっても、整形でもしない限り「顔」は変えられません。 けれど、「服装」は自分の意志で変えられます。
人はその「変えられる部分」を材料にして、相手を判断し、距離を測り、立場を決めていく。 だからこそ装いは、単なる好みや自己満足ではなく、「社会との接点そのもの」になるのだと思います。
入学式とは、子供にとっての晴れ舞台であると同時に、親にとっては最初の「公開の場」でもあります。そこでの佇まいは、周囲の記憶に、静かに、しかし確実に残ります。
もちろん、スーツ一着でいじめが防げるほど、現実は単純ではありません。 本人の性格、相性、集団の力学。 装いは、決して魔法の道具でも、万能の盾でもありません。
けれど、「無用に踏み込まれにくくなる」という程度の抑止力は、確かに存在します。
スーツは仕事着である前に、正装である前に、時として「家族の立場を静かに守る装備」になります。
親のスーツが、子供の立ち位置を決めてしまうことがある。 皮肉な話ですが、この現実を知った上でどう装うかを考えるのは、きっと「大人の責任」なのでしょう。
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「見た目で判断される」という現実は、学校だけでなくビジネスの最前線でも同じです。ロゴという記号に頼らず、自らの哲学で装いを選ぶことが、なぜ周囲に安心感を与えるのか。私なりに感じていた装いの本質について綴った、もうひとつの記録です。
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